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BAROQUE
2017.09.01 Friday 02:01 | 小説
今日は回収日だった。
台所のシンクに置きっぱなしのざる、その中の鱗が砥いだ米粒のように光っている。僕はそれを適当な袋に詰めて家を出た。低血圧の姉はまだ起きてこない。多少音を立てたところで彼女が起きるなんてことはないのだろうけれど、僕は気を使って戸を閉めた。
自転車を駆って坂を降りたところにある回収所にまっすぐ向かう。自動ドアが開いた瞬間に漏れ出る冷気に汗が冷やされて心地良い。坂を下る風は気持ちよかったが、クーラーのそれには勝てない。受付で鱗を手渡し現金を受け取った。
台所のシンクに置きっぱなしのざる、その中の鱗が砥いだ米粒のように光っている。僕はそれを適当な袋に詰めて家を出た。低血圧の姉はまだ起きてこない。多少音を立てたところで彼女が起きるなんてことはないのだろうけれど、僕は気を使って戸を閉めた。
自転車を駆って坂を降りたところにある回収所にまっすぐ向かう。自動ドアが開いた瞬間に漏れ出る冷気に汗が冷やされて心地良い。坂を下る風は気持ちよかったが、クーラーのそれには勝てない。受付で鱗を手渡し現金を受け取った。
「いつもながら綺麗ね」
「ありがとうございます、姉に伝えておきます」
回収所のおばさんは手元のサイズ表と見比べて鱗の大きさと輝きを見ているようだった。かちゃり、かちり、と鱗が分別されていく。
「最近は洗ってもくれない人が多くてね」
僕は昨晩の姉が米砥ぎざるで鱗を洗う姿を思い出した。そんな丁寧に扱っているわけではないんですよ、とも言えず僕は複雑な表情をした。
***
それまで姉の爪や鱗などは普通ゴミとして処分していた。確かに彼女の爪はしなやかで固く鋭く、鱗は油膜を引いたような淡い虹色をしていて美しかったが、姉にとっては老廃物でしかなかった。そりゃそうだ。だから僕らはなにも悪いことをしているつもりもないまま過ごし、ある日突然役所の人たちがやってきてしこたま叱られたのだった。
「だからね、お姉さんの爪や鱗にはあなたが思っているよりも何倍も価値があるわけよ」
「はあ」
スーツをかっちりと着込んだ役所の人は懐から取り出したハンカチで額の汗を拭きながら僕を詰める。今日は特に暑い。もうそろそろクールビスを始めていてもいいものだろうに。
曰く、彼女らのような竜の爪や鱗には宝飾や漢方、工業製品、その他幅広い分野において需要があるのだという。だからそうやってゴミみたいに捨てられると非常に困る。そういう油断した家庭のゴミ袋を漁って回収したりする質の悪い業者も現れ始める始末なのだ。たちの悪い業者が増えれば市場価格が崩壊して竜資源業界が立ち行かなくなってしまう。
と、だいたいそんなようなことを言った。
曰く、彼女らのような竜の爪や鱗には宝飾や漢方、工業製品、その他幅広い分野において需要があるのだという。だからそうやってゴミみたいに捨てられると非常に困る。そういう油断した家庭のゴミ袋を漁って回収したりする質の悪い業者も現れ始める始末なのだ。たちの悪い業者が増えれば市場価格が崩壊して竜資源業界が立ち行かなくなってしまう。
と、だいたいそんなようなことを言った。
「最近は健康食品にも使われたりしてね。ほら、あなたも見たことがあるでしょう。テレビのCMとか、」
「すみません、うちテレビないんで…」
これ以上続けても面倒なだけだったので、適当なところで切り上げてもらった。受け取った役所のパンフレットに目をやる。そこにはこうした爪や鱗(竜由来資源というらしい)の回収場所や日付、回収できるものやできないものの説明などがつらつらと書いてあった。その名の通り資源回収ゴミみたいだな、と思って少し笑いそうになる。竜資源業界だってさ。
「宝飾ならまだしも、健康食品って」
竜の名が泣くからやめてほしいんだけど、と遅い朝食を食べながら姉が言った。朝の顛末を話して、これから市のルールに従って回収してもらわないといけないね、ということは理解してくれたが、やはりその利用手段には納得がいかないようだった。
「そもそも竜の爪や鱗に延命効果なんて一切ないのにね」
穏やかな口ぶりではあったが、表情は冷たげだった。ざくり、とスプーンがコーンフレークを掬った。
姉は昔、かつての交際相手を亡くしている。病にかかり、医者にも見放されたその人をどうにか救おうと半狂乱になった彼女は全身の鱗を引きちぎり煎じて飲ませた。「竜の鱗は万病に効く」なんて話は広く出回っていたけれど、当の彼女は唾棄していたはずだった。
そしてもちろんなんの効果もなく、そのまま死んでしまった。
葬儀のあと姉は一晩中泣き続け、それから自室に引きこもった。物音がしなくなって見かねた僕が部屋を覗くと、彼女は真珠の海の中崩れ落ちるようにして眠っていた。竜の涙は真珠状になることをすっかり忘れていた。目を覚ました姉があっけにとられる僕を視線に捉えて、あー、どうしよっか、と言った。1週間ぶりの会話だった。
そしてもちろんなんの効果もなく、そのまま死んでしまった。
葬儀のあと姉は一晩中泣き続け、それから自室に引きこもった。物音がしなくなって見かねた僕が部屋を覗くと、彼女は真珠の海の中崩れ落ちるようにして眠っていた。竜の涙は真珠状になることをすっかり忘れていた。目を覚ました姉があっけにとられる僕を視線に捉えて、あー、どうしよっか、と言った。1週間ぶりの会話だった。
結局あの涙は宝飾店に引き取ってもらった。
それまで爪や鱗は気にせず捨てていたけれど、ゴミ袋いっぱいの真珠をゴミ捨て場に置いておくのはさすがに躊躇する。形が歪なのと大きさがまちまちだったのとでひとつひとつの値はそこまでだったが、いかんせん量が量なので結構な金額になったのだった。
皮肉にも大金を手に入れてしまった僕たちだけれど、お金の使い方をよく知らないので生活に必要なだけ引き出して、残りは未だに手付かずのままだ。
それまで爪や鱗は気にせず捨てていたけれど、ゴミ袋いっぱいの真珠をゴミ捨て場に置いておくのはさすがに躊躇する。形が歪なのと大きさがまちまちだったのとでひとつひとつの値はそこまでだったが、いかんせん量が量なので結構な金額になったのだった。
皮肉にも大金を手に入れてしまった僕たちだけれど、お金の使い方をよく知らないので生活に必要なだけ引き出して、残りは未だに手付かずのままだ。
「生きてるだけで丸儲けだ」
帰り道で姉がへらへら笑いながら言った。冗談で言っているのか自虐を言っているのかよくわからなかったが、多分両方だろう。姉は自虐をなにか面白い冗談だと思っている節がある。僕を元気づけようと軽口を叩いたつもりらしい。
僕もつられて笑った。あんまり笑い事ではなかった。
僕もつられて笑った。あんまり笑い事ではなかった。
***
回収所からスーパーをはしごする。食料品と日用品を受け取ったばかりの現金で支払ってスーパーを出ると、家を出たばかりの頃はまだ低い位置にあった太陽が真上にまで昇っていた。冷やされた体を溶かす陽射しは最初こそ穏やかなものであったが、すぐに汗が吹き出しはじめる。わずかな涼を求めるように自転車を漕いで坂を登る。ただただ暑い!
「おかえり」
家に着き、自転車のスタンドを立てる音で僕に気付いた姉が窓から声をかける。いくらで買い取ってもらえたよ、と金額を伝えて買い物かばんを手渡した。なんとなくだけど、売れたという表現は使いたくなかった。
竜は財宝を蓄えた番人として退治される時代を経て、宝石で身を飾る美しい狩猟対象として狩られる時代を経て、いまでは決まった日にゴミを捨てに行くように老廃物と小銭を交換するようになった。確かに使う当てのない現金を蓄えているし、鱗の輝きは燃えるようなゆらめきを見せ、美しい。
姉はまごうことなく竜であった。
彼女は食料品を棚にしまいながら、歴史の勉強でもしようか、と言った。袋の底からアイスの箱を見つけて嬉しそうに1本取りだす。
竜は財宝を蓄えた番人として退治される時代を経て、宝石で身を飾る美しい狩猟対象として狩られる時代を経て、いまでは決まった日にゴミを捨てに行くように老廃物と小銭を交換するようになった。確かに使う当てのない現金を蓄えているし、鱗の輝きは燃えるようなゆらめきを見せ、美しい。
姉はまごうことなく竜であった。
彼女は食料品を棚にしまいながら、歴史の勉強でもしようか、と言った。袋の底からアイスの箱を見つけて嬉しそうに1本取りだす。
「かつて竜は人類の敵であった。しかしいまでは人類の友人として共にある。それはなぜか?」
姉は偉そうな教授のような口調で言った。考える僕を眺めながらアイスを食べている。なんてことはない、普通のミルクバーだ。
「なぜなら竜と人間とではコミュニケーションを取ることができなかったからだ。暴力をもって対話するより他はなかった」
むしろ対話ができないほうが都合がよかった。意思を持ち対話が可能な存在を武力で打ちのめし財宝を奪っていくなんて、まるで人間が悪者みたいじゃないか。なんでもないような顔をして、姉は続ける。
「このままだと全員殺されてしまう。困った竜は対抗策として人間と対話できるように努めた。声の周波数を人間に合わせてやったのだ」
人間と直接交渉し、互いに譲歩しあい(そもそも始まりは人間が一方的に殴ってきたのだから竜側に譲歩するようなことなどなかったのだが)、住み分けを行った。誇り高い一部は小さな生き物に屈する訳にはいかないと抵抗したが、みんな綺麗な首飾りや高級料亭のおろし金などになった。
竜たちは丁寧に牙を研がれ角を丸められ、資源を提供してもらう存在として人間社会に招かれた。結果として孤高なる財宝の番人は人間の豊かな暮らしの要素として組み込まれてしまった。
そうして彼女はアイスを食べ終える。
竜たちは丁寧に牙を研がれ角を丸められ、資源を提供してもらう存在として人間社会に招かれた。結果として孤高なる財宝の番人は人間の豊かな暮らしの要素として組み込まれてしまった。
そうして彼女はアイスを食べ終える。
「生きた鉱山みたいな扱いだね」
「わはは、言い得て妙」
アイスの棒を受け取ってゴミ箱に捨てた。僕も自分の分のアイスを取り出して食べ始める。今日の夕飯当番は姉だから、僕が今日やる仕事は終わり。アイスの冷たさが歯を伝って頭まで響くのを感じながら、先程の授業を思い返す。
竜には元々人間など優に蹴散らしてしまえるほどの力があった。そのために知恵を絞り徒党を組んだ人間によって巧みに狩られるようになってしまったし、また一方で力があったおかげでその後の交渉においても対等に渡り合うことができた。それならば、もし竜に力がなかったなら? 頭蓋を噛み砕く牙が、全てを薙ぎ払う尾が、多くの獣を従える魂が、もしもなかったのなら。
僕は想像する。
大きな檻の中の寝床に姉が眠っている。僕によく似た男が檻を開けて中に入る。姉は目覚めない。男が散らばった鱗を拾う。油膜を引いたような淡い虹色。転がる歪な真珠。
男が作業を終え檻を閉める音で目を覚ました姉が、立ち去る男の背中を見ている。
その口がなにかを囁いたような気がしたが、僕には何も聞こえなかった。
アイスの棒を受け取ってゴミ箱に捨てた。僕も自分の分のアイスを取り出して食べ始める。今日の夕飯当番は姉だから、僕が今日やる仕事は終わり。アイスの冷たさが歯を伝って頭まで響くのを感じながら、先程の授業を思い返す。
竜には元々人間など優に蹴散らしてしまえるほどの力があった。そのために知恵を絞り徒党を組んだ人間によって巧みに狩られるようになってしまったし、また一方で力があったおかげでその後の交渉においても対等に渡り合うことができた。それならば、もし竜に力がなかったなら? 頭蓋を噛み砕く牙が、全てを薙ぎ払う尾が、多くの獣を従える魂が、もしもなかったのなら。
僕は想像する。
大きな檻の中の寝床に姉が眠っている。僕によく似た男が檻を開けて中に入る。姉は目覚めない。男が散らばった鱗を拾う。油膜を引いたような淡い虹色。転がる歪な真珠。
男が作業を終え檻を閉める音で目を覚ました姉が、立ち去る男の背中を見ている。
その口がなにかを囁いたような気がしたが、僕には何も聞こえなかった。
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×月×日
2015.01.09 Friday 16:21 | 小説
今日は久しぶりに魔法を使った。魔法と言っても大したものではない。2階の窓を外から拭きたかったのだ。久しぶりにといっても、普段の生活で魔法を使うときというのがせいぜい高いところの掃除をするときぐらいだから例年並みといった感じ。まあ便利といえば便利だけど、やっぱり疲れるし。固く絞った雑巾を宙に浮かせ、2階の窓まで持っていく。そのまま少し力を加えて窓をこする。今年は黄砂が多かったから特に汚れがひどかった。一旦下ろして洗面所に戻って洗って、また窓まで飛ばす。2度水拭きをしてから乾いた布で拭き直した。これだけすれば十分だと思う。疲れるけど、これのおかげで脚立を買わずに済んでいるのだから文句も言うまい。掃除をしている間に郵便が届いたので受け取る。きりがいいところだったので片付けをしてお茶にした。
魔法でできることは基本的に自分でできる範囲内だけに限られる。でも「あとちょっと」を叶えるぐらいならできる。コツさえ掴めば50m走のタイムを少しだけ縮めることだって可能だ。先生にステッキを没収されないように気をつける必要があるけれど。それ以上のことをしようとするなら、それなりに難しい呪文を覚えないといけなくなる。重いものを持ち上げれば重いものを持ち上げた分だけの疲労がたまるし、なにもないところになにかを生み出すなんてことはできない。魔法も流行りだした頃はそれなりに参考書も出版され、英会話スクールみたいな感覚で魔法スクールなんてのも駅前にできていた(それを見て僕は「これが本当の魔法学校か〜」なんて思っていた)。だけど魔法の力が万能ではなく、思っていたより便利なことはできないとわかってからはみんな魔法に対しての興味を失ってしまった。魔法を覚えるより機械のスイッチを入れるほうが楽だと気付いてしまったのだ。頑張って呪文を覚えて炎を起こせたっていまじゃライターがあれば済む話だし、分厚い参考書を読むより数ページの取扱説明書で済むほうがいいに決まってる。なにより魔法でほうきを動かすぐらいなら掃除機を動かしたほうがよっぽど効率がいい。お稽古程度での魔法はどうにも燃費が悪い。最終的に魔法のレッスンなんてものは通信講座のカタログの片隅にいる習いごとという位置に収まった。遅すぎたのだ。人類が魔法を使えるようになるのを待たずに、科学はどんどん進歩していった。毎日の郵便物を無人ドローンが運んできてくれるし、ニュースでは最新型のロボットがどうのなどと言っているような世の中でいまどき魔法なんて覚えたがるのは暇人か変わり者だ。「その燃費の悪さがいいんだよ」と言ったタカハシさんのように。
タカハシさんは僕の近所に住んでいたおじさん? おにいさん?(彼らは見た目では年齢がよくわかりにくいし、結局いくつなのか聞きそびれてしまった)で、茶色いふさふさのしっぽを生やしていた。背が高くて、いつも耳をぴんと立てているのでより高く見えた。僕は鍵っ子だったのでタカハシさんにはよく遊び相手になってもらった。彼はいろんな趣味に手を出す人だった。巷で流行になったから、読んでいた本の登場人物がやっていたから、飲み友達に勧められたから。理由はなんでもよかった。これをやるぞと決めたら必要な物をとにかく買い揃える。実物はもちろん入門書からウェア、整備工具にスペアまでなにからなにまで集めてしまう。そして元が器用なのかそこそこマスターしてしまうのだ。僕はタカハシさんが丸太(素材は氷や粘土の塊、大きなスイカのときもあった)から動物の像を彫り上げたりディアボロを高く飛ばしたりするところを見てきたし、目の前をツバメウオが泳いだときや山の頂上から撮ったという日の出の瞬間の写真などを見せてもらったことがある。ギターはもちろん南米あたりの民族楽器らしい笛をどこからか手に入れてきて吹いていたときもあった。ロッククライミングをするなどと言い出したときは慌てたけど、トレーニングのために始めたボルダリングの方が気に入ったらしくジムに通いつめていたっけ。そしてマスターするころにはまた別の新しい流行が来ている。そうなるとそれまで買い揃えた道具も本もなにもかもを車に積んで売り払いに行く。さすがに授業料やジム代は返ってこなかったけど、流行の波が去ったものでもそれなりの値段をつけてくれたらしい。それを元手にして、新しい関連書籍を積んで帰ってくるのだ。魔法もそのひとつだ。僕が知っている中でタカハシさんの最後の流行が魔法だった。だから呪文の本も樫でできたステッキも使い捨てのスクロールも売り払われることなくいまも僕の手元に残っている。
僕はそんな変わり者のタカハシさんが大好きだったので、学校が終わるとすぐにタカハシさんの家に向かった。学校でつるむような友達がいなかったっていうのもあるけど(もちろん家に帰っても誰もいなかった)、単純にタカハシさんが披露してくれる演奏や作品が楽しみだった。料理のブームが来ているときには毎日おいしいおやつが食べられたし、テスト前なんかは学校の勉強も見てくれた。なにより、タカハシさんが教えてくれるいろんな器具や楽器やおもちゃの使い方を聞くのが楽しかったからだ。たまにふらっと旅に出たときは帰ってくるのを待ちながら教えてもらったことの復習をする。帰ってきたらタカハシさんは僕に旅先での写真を見せながら思い出話を語り、僕は練習の成果を彼に見せた。僕ができるようになるとタカハシさんは自分のことのように喜んでくれた。でもたいていは僕が全部覚える前に新しい流行が来てしまう。だから僕はサックスでは簡単な数フレーズは吹けるけれど難しい曲は覚えていないから吹けないし、トランプマジックなら少しはできるけど、少しテクニックのいるコインマジックはできない。なにより僕はタカハシさんほど器用ではなかった。タカハシさんの教え方は上手だったと思うけど、当時の僕にはまだ少し難しかった。いくつかのことは大人になってから本を読んで勉強したうえで再挑戦してみたけど、やっぱりタカハシさんがやっていたみたいにうまくはできなかった。
タカハシさんはいろんな趣味に熱中してきたけど、魔法が一番長く続いていたような気がする。魔法が「自分でできることしかできない」ということは、「自分ができることならできる」ということだ。道具こそ売り払ってしまったけれど、これまでに熱中した流行りものから得た技術は彼の中に積み重ねられていた。ある春には散った桜の花びらを舞い上げたかと思ったら民家の塀に貼り付けて絵を描いた。またある冬にタカハシさんは僕に家中のお椀に水を溜めさせるとそれを魔法で凍らせ、削って音階を調節したものを宙に浮かせながらジムノペディを演奏してみせた。タカハシさんはまるで無数の腕を手に入れたかのように魔法を操った。最初こそ子供だましだと思っていた僕だったけど、気付くとタカハシさんが見せる魔法に夢中になって何度も何度もせがみ、そのたびに彼は快くもう一度同じ魔法を使ってくれた。僕も魔法を使えるようになりたいと言うと、高校生が着るには大げさなマントと帽子を縫って僕に着せては「これでお前も魔法使いの弟子だ」なんて言ったりして。僕は誰よりも早く校門を出てタカハシさんの家に通っては分厚い参考書の頭から呪文を暗記していった。そしてこれまでのように僕が呪文を1つ覚える間にタカハシさんは3つ覚えていき、僕に見せびらかすように披露した。悔しかったけど、彼の魔法は鮮やかだった。そしてある日、魔法のように忽然と消えてしまった。
タカハシさんが魔法にはまりだしたのが僕が高校生になったころだったから、いなくなったのは高校を卒業するぐらいだったのだと思う。僕はタカハシさんを慕っていたけれども、彼がいなくなったことに対してそんなにショックを受けてはいなかった。もちろん寂しくはなったけど、タカハシさんがふらっといなくなることはよくあることだったし、もしかしたら家を空けがちだった両親がタカハシさんに僕の面倒を見てもらうように頼んでいただけだったのかもしれない。僕が新しい生活に慣れはじめたころ、つまりタカハシさんが失踪して半年ぐらい経って、持ち主のいなくなった魔法道具たちをどうするかという話になった。当時もう魔法の参考書は古本屋で250円、下手したら100円払えば手に入るような代物ばかりだったので売ったところで小遣いにもならなかっただろう。というよりむしろいままでタカハシさんが以前の趣味に関する本や道具を売ってそれなりのお金にしてきたことが不思議なぐらいだった。まとめて捨ててしまおうか、というところを僕が申し出て譲ってもらった。あれからタカハシさんの姿を見たことはない。僕はひとり暮らしをはじめ(いままでも十分ひとり暮らしのような状態だったけれども)、日々の生活に追われるようになった。ひとり暮らしはそれなりに忙しいけれど暇であることも確かで、いろんな趣味をはじめたくなる気持ちが少しわかったような気がする。でも僕はタカハシさんほどいろんなものに興味を持つタイプではなかったから、譲り受けた魔法の本だけで十分暇を潰すことができた。たまにタカハシさんに会いたくなると、参考書やステッキを本棚から引っ張り出してきて新しい魔法の勉強をする。タカハシさんに会えるわけではないんだけど、彼がいたころのことを思い出せるから。実際に日常生活で魔法を使う機会は年に何回かでも、ものを覚えるということはなかなか楽しい。覚えた魔法の数は増えたけれど、やっぱりタカハシさんみたいにうまくはできないなあ、なんてひとりごちてみたりする。いま彼がどこでなにをしているのか、生きているのか死んでいるのかさえわからないけれど、僕はなんとなくあの人のことだから知らない街でまた新しい趣味に没頭しながら楽しく暮らしているんじゃないかと思っている。
知らない街といえば、今日届いた郵便物の中に見慣れない住所からの絵ハガキが入っていたのを思い出した。絵ハガキなんていまどき珍しい。それを確認したら今日はもう寝よう。ずいぶん夜更かしをしてしまった。明日も特に予定はないし、久しぶりに新しい魔法の勉強でもしようかな。
魔法でできることは基本的に自分でできる範囲内だけに限られる。でも「あとちょっと」を叶えるぐらいならできる。コツさえ掴めば50m走のタイムを少しだけ縮めることだって可能だ。先生にステッキを没収されないように気をつける必要があるけれど。それ以上のことをしようとするなら、それなりに難しい呪文を覚えないといけなくなる。重いものを持ち上げれば重いものを持ち上げた分だけの疲労がたまるし、なにもないところになにかを生み出すなんてことはできない。魔法も流行りだした頃はそれなりに参考書も出版され、英会話スクールみたいな感覚で魔法スクールなんてのも駅前にできていた(それを見て僕は「これが本当の魔法学校か〜」なんて思っていた)。だけど魔法の力が万能ではなく、思っていたより便利なことはできないとわかってからはみんな魔法に対しての興味を失ってしまった。魔法を覚えるより機械のスイッチを入れるほうが楽だと気付いてしまったのだ。頑張って呪文を覚えて炎を起こせたっていまじゃライターがあれば済む話だし、分厚い参考書を読むより数ページの取扱説明書で済むほうがいいに決まってる。なにより魔法でほうきを動かすぐらいなら掃除機を動かしたほうがよっぽど効率がいい。お稽古程度での魔法はどうにも燃費が悪い。最終的に魔法のレッスンなんてものは通信講座のカタログの片隅にいる習いごとという位置に収まった。遅すぎたのだ。人類が魔法を使えるようになるのを待たずに、科学はどんどん進歩していった。毎日の郵便物を無人ドローンが運んできてくれるし、ニュースでは最新型のロボットがどうのなどと言っているような世の中でいまどき魔法なんて覚えたがるのは暇人か変わり者だ。「その燃費の悪さがいいんだよ」と言ったタカハシさんのように。
タカハシさんは僕の近所に住んでいたおじさん? おにいさん?(彼らは見た目では年齢がよくわかりにくいし、結局いくつなのか聞きそびれてしまった)で、茶色いふさふさのしっぽを生やしていた。背が高くて、いつも耳をぴんと立てているのでより高く見えた。僕は鍵っ子だったのでタカハシさんにはよく遊び相手になってもらった。彼はいろんな趣味に手を出す人だった。巷で流行になったから、読んでいた本の登場人物がやっていたから、飲み友達に勧められたから。理由はなんでもよかった。これをやるぞと決めたら必要な物をとにかく買い揃える。実物はもちろん入門書からウェア、整備工具にスペアまでなにからなにまで集めてしまう。そして元が器用なのかそこそこマスターしてしまうのだ。僕はタカハシさんが丸太(素材は氷や粘土の塊、大きなスイカのときもあった)から動物の像を彫り上げたりディアボロを高く飛ばしたりするところを見てきたし、目の前をツバメウオが泳いだときや山の頂上から撮ったという日の出の瞬間の写真などを見せてもらったことがある。ギターはもちろん南米あたりの民族楽器らしい笛をどこからか手に入れてきて吹いていたときもあった。ロッククライミングをするなどと言い出したときは慌てたけど、トレーニングのために始めたボルダリングの方が気に入ったらしくジムに通いつめていたっけ。そしてマスターするころにはまた別の新しい流行が来ている。そうなるとそれまで買い揃えた道具も本もなにもかもを車に積んで売り払いに行く。さすがに授業料やジム代は返ってこなかったけど、流行の波が去ったものでもそれなりの値段をつけてくれたらしい。それを元手にして、新しい関連書籍を積んで帰ってくるのだ。魔法もそのひとつだ。僕が知っている中でタカハシさんの最後の流行が魔法だった。だから呪文の本も樫でできたステッキも使い捨てのスクロールも売り払われることなくいまも僕の手元に残っている。
僕はそんな変わり者のタカハシさんが大好きだったので、学校が終わるとすぐにタカハシさんの家に向かった。学校でつるむような友達がいなかったっていうのもあるけど(もちろん家に帰っても誰もいなかった)、単純にタカハシさんが披露してくれる演奏や作品が楽しみだった。料理のブームが来ているときには毎日おいしいおやつが食べられたし、テスト前なんかは学校の勉強も見てくれた。なにより、タカハシさんが教えてくれるいろんな器具や楽器やおもちゃの使い方を聞くのが楽しかったからだ。たまにふらっと旅に出たときは帰ってくるのを待ちながら教えてもらったことの復習をする。帰ってきたらタカハシさんは僕に旅先での写真を見せながら思い出話を語り、僕は練習の成果を彼に見せた。僕ができるようになるとタカハシさんは自分のことのように喜んでくれた。でもたいていは僕が全部覚える前に新しい流行が来てしまう。だから僕はサックスでは簡単な数フレーズは吹けるけれど難しい曲は覚えていないから吹けないし、トランプマジックなら少しはできるけど、少しテクニックのいるコインマジックはできない。なにより僕はタカハシさんほど器用ではなかった。タカハシさんの教え方は上手だったと思うけど、当時の僕にはまだ少し難しかった。いくつかのことは大人になってから本を読んで勉強したうえで再挑戦してみたけど、やっぱりタカハシさんがやっていたみたいにうまくはできなかった。
タカハシさんはいろんな趣味に熱中してきたけど、魔法が一番長く続いていたような気がする。魔法が「自分でできることしかできない」ということは、「自分ができることならできる」ということだ。道具こそ売り払ってしまったけれど、これまでに熱中した流行りものから得た技術は彼の中に積み重ねられていた。ある春には散った桜の花びらを舞い上げたかと思ったら民家の塀に貼り付けて絵を描いた。またある冬にタカハシさんは僕に家中のお椀に水を溜めさせるとそれを魔法で凍らせ、削って音階を調節したものを宙に浮かせながらジムノペディを演奏してみせた。タカハシさんはまるで無数の腕を手に入れたかのように魔法を操った。最初こそ子供だましだと思っていた僕だったけど、気付くとタカハシさんが見せる魔法に夢中になって何度も何度もせがみ、そのたびに彼は快くもう一度同じ魔法を使ってくれた。僕も魔法を使えるようになりたいと言うと、高校生が着るには大げさなマントと帽子を縫って僕に着せては「これでお前も魔法使いの弟子だ」なんて言ったりして。僕は誰よりも早く校門を出てタカハシさんの家に通っては分厚い参考書の頭から呪文を暗記していった。そしてこれまでのように僕が呪文を1つ覚える間にタカハシさんは3つ覚えていき、僕に見せびらかすように披露した。悔しかったけど、彼の魔法は鮮やかだった。そしてある日、魔法のように忽然と消えてしまった。
タカハシさんが魔法にはまりだしたのが僕が高校生になったころだったから、いなくなったのは高校を卒業するぐらいだったのだと思う。僕はタカハシさんを慕っていたけれども、彼がいなくなったことに対してそんなにショックを受けてはいなかった。もちろん寂しくはなったけど、タカハシさんがふらっといなくなることはよくあることだったし、もしかしたら家を空けがちだった両親がタカハシさんに僕の面倒を見てもらうように頼んでいただけだったのかもしれない。僕が新しい生活に慣れはじめたころ、つまりタカハシさんが失踪して半年ぐらい経って、持ち主のいなくなった魔法道具たちをどうするかという話になった。当時もう魔法の参考書は古本屋で250円、下手したら100円払えば手に入るような代物ばかりだったので売ったところで小遣いにもならなかっただろう。というよりむしろいままでタカハシさんが以前の趣味に関する本や道具を売ってそれなりのお金にしてきたことが不思議なぐらいだった。まとめて捨ててしまおうか、というところを僕が申し出て譲ってもらった。あれからタカハシさんの姿を見たことはない。僕はひとり暮らしをはじめ(いままでも十分ひとり暮らしのような状態だったけれども)、日々の生活に追われるようになった。ひとり暮らしはそれなりに忙しいけれど暇であることも確かで、いろんな趣味をはじめたくなる気持ちが少しわかったような気がする。でも僕はタカハシさんほどいろんなものに興味を持つタイプではなかったから、譲り受けた魔法の本だけで十分暇を潰すことができた。たまにタカハシさんに会いたくなると、参考書やステッキを本棚から引っ張り出してきて新しい魔法の勉強をする。タカハシさんに会えるわけではないんだけど、彼がいたころのことを思い出せるから。実際に日常生活で魔法を使う機会は年に何回かでも、ものを覚えるということはなかなか楽しい。覚えた魔法の数は増えたけれど、やっぱりタカハシさんみたいにうまくはできないなあ、なんてひとりごちてみたりする。いま彼がどこでなにをしているのか、生きているのか死んでいるのかさえわからないけれど、僕はなんとなくあの人のことだから知らない街でまた新しい趣味に没頭しながら楽しく暮らしているんじゃないかと思っている。
知らない街といえば、今日届いた郵便物の中に見慣れない住所からの絵ハガキが入っていたのを思い出した。絵ハガキなんていまどき珍しい。それを確認したら今日はもう寝よう。ずいぶん夜更かしをしてしまった。明日も特に予定はないし、久しぶりに新しい魔法の勉強でもしようかな。