[PR]
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
10月23日
2014.10.24 Friday 02:50 | 日記
ひどい誤字だらけだったけど、昨日の日記はそこそこ気に入る文章になった。
眠気の中書き上げたから、むしろ更新したことをちゃんと偉いって言ってくれ。
呪いと和解している人がいると思う。
「呪い」というのはなんらかの生きづらさ/コンプレックス/後ろ暗さということを抽象的に表した表現なのだけれど(発想の元はナタリーかどっかによる米津玄師の『YANKEE』発売時インタビューを探して読んでください)、これをたくさん背負っている人とそうでもない人がいる。少なくとも思春期をねじくれたまま過ごすとたくさん呪いを背負うことになると思っている。まっとうに生きるには生きづらそうな人々。「健康」でない人々。
それで呪いを背負った人間というのはやはり周りの人間とうまく関係を築けない。呪いのない人間にできることが満足にできない。築けたとしても短期の関係で終わってしまう。ただ、呪いのある人間は一種の人間には興味を惹くように映る。一種の人間は彼らがその呪いを背負うことになった過去に興味を持つ。しかしその過去が過去なのでそういった物好きな人間とも長期の関係を築くのにはいたらない。彼ら側からすれば「踏み込んじゃいけない領域だよね」という配慮、もしくはつかみどころのない得体のしれなさから一歩距離感を置かれるが、これが呪いを負った人間からするとああ自分は信頼されていないんだと映る。人によってはそれなりに交友関係を持つけれど、深い付き合いにはならない。「こんな奴がいてさぁ、」と誰かの話題の種にはなるけれど、長年の付き合いというようにはならない。
そういう人間は自然と集まるのか、身近に呪いを負った人間が何人かいる。現在進行形で呪いに悩んでいる者もいれば、それを受け入れている(ように見えているだけで本当は悩んでいるのかもしれないけれど)者もいる。呪いと対峙してなんとかしようとしている人もすごいし、呪いを受け止め飲み下している人もすごい。それぞれに呪いと和解しようとしている。
一方自分は人から「踏み込んじゃいけないよね」なんて思われる前に自分から喋るようにしたらそれはそれでなんかやばい奴だと思われるようになってしまった。つらい思春期を送った人間はそれだけで信頼されなくなってしまうとすら思ってしまう。でも言ってしまえば「自分は変なアダ名をつけられるような生き物です」とアピールしているわけなので仕方ないのかもしれない。
自分は呪いと和解できているんだろうか。正直言ってあまり和解しきれている自信はない。自分の場合、和解というよりかは見ないふりをしているだけにも思える。その代わりというにはおこがましいかもしれないけれど、身近にいる呪いを背負った人々と少しずつ仲良くなろうとしている。他人からあまり信頼されないつらさを少しはわかっているつもりだし、自分だって長いこと友達がいなかったから仲良く話をしたりできるのはうれしい。もちろん信頼だってしてるぞ。というかむしろこれもある種の和解なんじゃないかとすら思えてきた。友達のできなかった、影でツタヤとか呼ばれてきた過去との和解だ。ずっと人と仲良くなりたかったんだ。エスオーエスの向こうに救命はないと知っていたって精々生きていこうぜ。
眠気の中書き上げたから、むしろ更新したことをちゃんと偉いって言ってくれ。
呪いと和解している人がいると思う。
「呪い」というのはなんらかの生きづらさ/コンプレックス/後ろ暗さということを抽象的に表した表現なのだけれど(発想の元はナタリーかどっかによる米津玄師の『YANKEE』発売時インタビューを探して読んでください)、これをたくさん背負っている人とそうでもない人がいる。少なくとも思春期をねじくれたまま過ごすとたくさん呪いを背負うことになると思っている。まっとうに生きるには生きづらそうな人々。「健康」でない人々。
それで呪いを背負った人間というのはやはり周りの人間とうまく関係を築けない。呪いのない人間にできることが満足にできない。築けたとしても短期の関係で終わってしまう。ただ、呪いのある人間は一種の人間には興味を惹くように映る。一種の人間は彼らがその呪いを背負うことになった過去に興味を持つ。しかしその過去が過去なのでそういった物好きな人間とも長期の関係を築くのにはいたらない。彼ら側からすれば「踏み込んじゃいけない領域だよね」という配慮、もしくはつかみどころのない得体のしれなさから一歩距離感を置かれるが、これが呪いを負った人間からするとああ自分は信頼されていないんだと映る。人によってはそれなりに交友関係を持つけれど、深い付き合いにはならない。「こんな奴がいてさぁ、」と誰かの話題の種にはなるけれど、長年の付き合いというようにはならない。
そういう人間は自然と集まるのか、身近に呪いを負った人間が何人かいる。現在進行形で呪いに悩んでいる者もいれば、それを受け入れている(ように見えているだけで本当は悩んでいるのかもしれないけれど)者もいる。呪いと対峙してなんとかしようとしている人もすごいし、呪いを受け止め飲み下している人もすごい。それぞれに呪いと和解しようとしている。
一方自分は人から「踏み込んじゃいけないよね」なんて思われる前に自分から喋るようにしたらそれはそれでなんかやばい奴だと思われるようになってしまった。つらい思春期を送った人間はそれだけで信頼されなくなってしまうとすら思ってしまう。でも言ってしまえば「自分は変なアダ名をつけられるような生き物です」とアピールしているわけなので仕方ないのかもしれない。
自分は呪いと和解できているんだろうか。正直言ってあまり和解しきれている自信はない。自分の場合、和解というよりかは見ないふりをしているだけにも思える。その代わりというにはおこがましいかもしれないけれど、身近にいる呪いを背負った人々と少しずつ仲良くなろうとしている。他人からあまり信頼されないつらさを少しはわかっているつもりだし、自分だって長いこと友達がいなかったから仲良く話をしたりできるのはうれしい。もちろん信頼だってしてるぞ。というかむしろこれもある種の和解なんじゃないかとすら思えてきた。友達のできなかった、影でツタヤとか呼ばれてきた過去との和解だ。ずっと人と仲良くなりたかったんだ。エスオーエスの向こうに救命はないと知っていたって精々生きていこうぜ。
PR
Comment